sheeprabbit’s diary

思うところを等身大で書く

「安心・安全」について

「安心・安全」がひとつの考え方として普及したのは東日本大震災のときだろう。

あの時、原発事故により放射性物質が漏れ出し、食べ物に対するもやもやとした不安が人々に広がった。

生産者・供給者は消費者の不安を払拭するため、考えなくても感覚でわかるくらいの丁寧な内容で説明したりPRしたりした。それが、安全なので安心して食べて下さい、という言葉になった。

もちろん、震災以前も牛肉や外国の加工肉製造工場の衛生管理など、内容や地域など限定的に食の安全を問う声はあった。

しかし、震災以降、広い業種や色々な場面で安心・安全が当たり前の流れができた。

消費者や受け手にとって安心安全は正しいことであり、標準仕様の一種になった。

供給側は、必要条件を満たすだけではダメで十分条件まで満たさなければならなくなった。

この思考はコロナ禍でも見られ、全国津々浦々までの自粛につながった。

国(供給側)は安心安全で間違いなしの自粛を要請し、国民(受け手)は影で犠牲になっている経済があることに気づきつつ、仕方ないと思考停止し、安心安全な自粛を実行した。

確かに不正解ではないかもしれない。

しかし部分的に正解でも、少し俯瞰してみれば最適解は別のところに存在しているのではないか。

「安心安全」が生み出したものは、ある一面の必要十分条件を満たすことに囚われ、思考停止し、部分的正解に満足し、切り捨てた部分の解釈や犠牲については、我関せず、という短期的で狭い視野にたった「正解」をよしとする世界かもしれない。

そして、これはもしかして、経済で想定する合理的な人間像に近いのでは。